ざばぁっ、とニアは池の中から立ち上がった。
冷たい冬の空気が一気に肺の中に流れ込む。
服が水を含んで重い。
ぱたぱたと水滴の落ちる音がする。
水 彩 3
一瞬の出来事に茫然としたニアは、ぼんやりと水面を見つめていた。
抜けるような青空と、ニアを見つめ返すもう一人のニアの顔があった。
もっとも、絶え間なく滴る水滴による波紋で像は歪められているけれど。
肌が、ぴりぴりとして痛い。
落ちた際に打ったのではなく、極端な温度差で肌が錯覚を起こしているのだ。
ニアは、なんとなく奇妙な感覚に包まれていた。
この瞬間、ニアの全思考は止まっていたと言っていい。
頭の中は真っ白で…そこには何の迷路も、理論もなかった。
迷路が消えたその後で、ただ答えだけが。
答えだけが、そこにぷかりと浮かび上がってきた。
「ニア、ニア大丈夫?!」
すぐ隣での慌てた声。
ニアは顔を上げない。
「私…………」
独り言のような呟きだった。
「…が…好きです」
「………………………ぇ?」
ニアは依然俯いたままだ。
「好きです」
その頭は、急激に回転し始めていた。
(…私は…が好きだったんだ)
欠けていたパーツが見つかって、再び機械が動き出したような感覚。
体中を巡る血液が沸騰している気がした。
全ての謎が、次々とニアの前に道を開ける。
「好きです」
もう一度、呟いた。
とても心地よい響き。
そこでニアは初めて顔を上げた。
目の前にはやはり全身びしょ濡れのがいて。
信じられないというような表情をしている。
口をあんぐり開けたまま、は絞り出すように声を出した。
「だって……だってニア………、」
謎が次々とニアの前に道を開ける。
ニアは再び面を伏せた。
「私は…自分がを好きだという事実に気付いていませんでした……。といると、ただ心がざわついて…。
いや……ただ、認めたくなかっただけなのかもしれません。私は、怖かった」
そこでニアは一旦息をついた。
「何、が?」
じっと耳を傾けていたが促す。
「……自分で、なくなってしまうことが…」
ニアは、水面に映る自分の顔を見ていた。
「は、どれだけ壁を作ろうとしてもたやすく私の心に入ってきてしまう。
最初は、それでもよかった。なのに、の占める割合がどんどん大きくなっていって…。
自分が変わってしまう気がしました。まるで……そう、水彩絵の具みたいに」
ぱち ぱち ぱち …
頭の中で完成してゆくパズル。
「白い絵の具に少しでも別の色を加えてしまえば、それはもう白ではない。私にとってはそういう存在でした。
が少しでも私の中に入ってしまえば、私はもう私ではなくなってしまう…それが、怖かったんです」
自分がどうしようもなく情けなくて、ニアの声はかすれ、小さくなっていく。
それでもは黙って、じっと聞いていた。
ニアがまた黙り込んだのを見て、軽く空を仰ぎ見る。
「好き…だったなんて……遅すぎますよね……」
口を開いたのはニア。
「私は、を傷つけすぎました…」
そうして、すみませんでした、とニアは言った。
はふと、自分の頬に温かいものが流れていくのを感じた。
それは、今まで自分の髪から滴っていたような水滴とはまるで別物だった。
喉から嗚咽が漏れ出た。
自分が泣いてるのだと初めて知った。
涙はあとからあとから流れ出てくるし、気づけば自分はしゃくりあげていた。
滲んだ視界でニアが慌てている。
?泣いてるのですか?すみません、すみません…そんな声が遠くに聞こえた。
「ちが……の…」
こんな状態では喋るのにも必死だ。
えぇい止まれ止まれ。
そう思っても涙も嗚咽も止まらない。
は必死に言葉を繋げる。
「ほっと…した、の……ひっく…嫌われ…と…思ってた…」
自分でもめちゃくちゃだと思った。
それでもニアは理解してくれたよう。
がまだ何か言おうとしているので、じっとを見ている。
「だって……だって私………私ね、私………、」
せめてこれだけはきちんと言いたくて、はぐっと全てを堪えてニアを見た。
涙で潤んだの目に映る、珍しく心配そうで不安げな瞳をしたニア。
「私は、もっともっと前から、ニア…ニア、を…好き、だったから………っ」
今度はニアが驚く番だった。
目を見開いて、何も言わずを見つめている。
は再び泣き始めた。
しかし今度は静かに、ただ黙って涙を流し続けた。
(も…私が…好き…)
ニアは何度も頭の中で反芻する。
普段は速い頭の回転が、なぜだか再びスローモーション。
(好き…………)
「私は……」
おぼろな眼つきでニアは呟く。
「許されるのですか」
ずずっと鼻をすすったが、一瞬不思議そうな顔をした。
そして。
「惚れた弱み、だよね」
泣きはらした顔で、にっこりと微笑んだ。
ニアが豆鉄砲をくらったかのような顔をした。
その顔を見て、がぷ…っと吹き出し、肩を震わせ笑い始める。
つられて、ニアの口元も緩んだ。
確かに、確かにあの空間が戻ってきた。
もしくはそれ以上の、
この後、池から出てロジャーの元へ出頭し、しっかり怒られたびしょ濡れの二人。
次の日並んで仲良く寝込んだことは、言うまでもない。