もう、叶わないと知っていることがある。
願いが叶うころ
青空の下で彼女は空を見上げていた。
肩にショールをかけて、車椅子に座って。
もう短く真白になった頭髪が、日の光を受けて淡く。
鰯雲が青空に大群で。
緩やかな風が大樹を揺らし梢が鳴る。
幾葉もの幾葉もの緑が重なり離れては光を弾く。
その全ての色を分類して名づけることはできないくらいの、緑。
彼女の後姿を見ていた彼は、からら…と屋外へ通じる扉を開けた。
こつこつという足音が石畳を鳴らす。
気付いていても彼女は後ろを振り向くことはない。
「寒く、ないですか」
「えぇ。大丈夫よ」
彼のゆっくりとした問いに、彼女もまた穏やかに返した。
まだ上着は必要だったけれど、春の気配を感じさせる風だった。
彼女の視線の先には、きゃぁきゃぁと騒ぐ幼いイノチの群れ。
ひとりひとりが輝く人生を持つことを彼女はいつだって祈っている。
「5代目の調子は、どうです?」
彼女はゆっくりと彼の方へ首を向けた。
優しい微笑みに出会う。
「順調ですよ」
「そう」
満足そうに彼女は目を細めた。
陽光が降りしきる、子供の歓声が風に乗る。
「中に入りますか?」
「もう少し、此処に居るわ。今日は何だか、空気が美味しくて」
「では先に戻りますね」
こつ、こつと彼が屋内へ戻っていく足音を聞きながら、彼女はまた目線を空へと。
その体の内にいったいどれほどの時間を刻み込んできただろう。
ハリを失い、乾きしわがれた手を膝の上で擦り合わせた。
もう、叶わないと知っていることがある。
年老いた体。
過ごしてきた日々。
忘れられない思い出たち。
どれほど多くの想いがこの乾いた体に秘められているのか。
眩しい陽光に目を細め、閉じた。
背中をゆっくりと車椅子の背もたれに預ける。
「」
不意に名前を、呼ばれた気がした。
彼女は目を開けた。
「」
もう、叶わないと知っていることがある。
それは。
それはもう一度。
「」
あぁ。
老いた体から
秘めた想いが、刻んだ時が
飛び立っていく。
「………………える」
愛しい人の名を呼んで、彼女は立ち上がった。
恐れることなんて、もう何もなかった。
だって目の前であの人が微笑んでいる。
ずっとずっと、待っていたのよ。
黒髪なびかせ駆け出して
その腕に抱かれて
背中に手をまわして
胸板に顔を押し付けて
幸せだった。
幸せすぎて涙を流した。
もう、叶わないと知っていたことがあった。
けれど、抱き続けてきた願いは、祈りは。
本当に、
突然に、
叶うのだ。
「ニアー!」
自分の名前を呼ぶ幼い可愛らしい声。
彼は声のする方へ首を向けた。
ベランダの扉にはりついているのは今年4歳の女の子。
くりくりとした瞳で彼に“こっちへ来て”と訴えている。
読んでいた本をテーブルに置いて、彼はベランダまで歩いていった。
「どうしたんですか?エイミー」
「あのね、が寝ちゃったの。お話聞きたかったのに」
「おや、そうですか」
彼は一旦部屋の中へ戻ると、ブランケットを取った。
そうして先に駈けてゆく女の子の後ろを、彼女に向かって歩き出した。
近くまで来て一度、歩みを止める。
(…………、…………)
「ねぇニア?」
はっとして目線を下におろした。
自分を見上げる瞳はあどけなく輝いていて。
「、起きたらお話してくれるかな?」
「えぇ、きっとね。だから今はを起こしてはいけませんよ。他の子たちと遊んできなさい」
「はぁーい」
ぱたぱたと足音が遠のいていく。
彼はその場から、動くことが出来なかった。
「あの人には、会えましたか」
やっと紡ぎだした声はどこかかすれている。
彼女は、答えない。
風が柔らかく彼女の髪を揺らしている。
彼は空を見上げた。
「どうも、年を取ると涙脆くなっていけませんね」
つ………と頬を暖かいものが滑った気がした。
相変わらず子供たちの遊ぶ声が遠く近く聞こえて。
緑は青々と茂り、陽光は降り注ぎ、梢が揺れて、空は突き抜けそうなくらいに青く。
彼女はもう、ここにはいない。
「私の会いたい人は…もう皆向こうへ………行ってしまいましたね………」
ふ、と息をついて彼は彼女の体にブランケットをかけた。
敬愛を、こめて。
「おやすみなさい、。………貴女に、安らぎを」