自分の家のドアを前にして、こんなに緊張したことがあっただろうか。
標識には間違いない、『』の文字。
私が怖くて立ち尽くしていると、意を決したように隣にいた後輩が口を開いた。



先輩。先輩は少し離れていて下さい。
 まずは自分が扉を開けて中を確認しますから。」



………ホントにイイヤツ。

私は何も言えず頷くと、握り締めていた鍵を彼に渡した。
彼は受け取ると、目で私に退くように合図する。

そうして彼は、鍵穴に鍵を挿そうとゆっくりと手を伸ばした。















   彼と彼女、道の上 <後編>















がちゃり………


静かな廊下に響き渡った錠を開けた音。
途端に、誰かが私の家の廊下を歩いて来る音がした。



(誰か私の家にいるんだ!)



そう思うと、背筋に恐怖がぞくりと這い上がった。





『家で待ち構えていた殺人鬼 男女二名刺される』

なんて見出しが明日の新聞の一面を飾ったりしないだろうか。
そんなことまでが頭を巡った。
そうしたらLは、涙を流してくれるかしら。


ああ、もし死ぬとしたら心残りは。

Lにもう一度会いたかった…って、私、刺されてから思うのかしら。

よくあるドラマみたいに、冷たい床に流れ出す自分の血を見ながらLを思い浮かべるのかしら。





馬鹿馬鹿しいほどの杞憂を胸に抱いて、私はドアをじっと見ていた。


やがて、がちゃり………と音をたてて後輩がドアを開ける。
冷たい石の床に、オレンジ色の暖かな光の筋が通った。
けれど、後輩はその床に倒れることはなかったし、恐ろしい男が中から飛び出ることもなかった。
後輩はドアの向こう側にいたとおぼしき人物を凝視している。
私の方からは、その人物はドアの陰に入っていて見えない。

やがて、声が聞こえた。



「……あなた誰ですか」



後輩に向けられた声。
その言葉に多少面喰いながら、後輩も負けじと言い返す。



「え、いや、あなたこそ誰ですか」

「……私は、」

(!!!)



ちょっと、ちょっとちょっと!!

私、半ば転びそうになりながら、半開きのそのドアをがっと開いた。


その瞬間。





夢にまでみた。


大きな、大きな黒い瞳が。


私を、映し出した。





「あっ、あ〜〜〜〜〜〜〜〜?!」



「先輩。って、え?」



オレンジの光を背負って立っていたのは。


他でもない、L。


ぼさぼさの黒髪も、目の下の隈も、丸くなった猫背も、そのままに。

ずっとずっと会いたかった人物の突然の登場に、頭はパニック状態。



「な、なんで?どうして?」

「……、………」



不審そうな目で後輩を見たL。
そうして次に私に向けられた何とも言えず冷たい視線。


その瞬間酔いなんて消し飛んで、私はハッとした。


この状況って、とっても誤解されそうな状況じゃないんですか?もしかして!
というよりもLはもう半ば誤解しそうになっているんじゃないかと思う。

慌てて、私は後輩の方に向き直った。



「ごめん、あの、ほんとー…にこんなオチで申し訳ないんだけど………知り合い、だった」

「なんとなく…そうかな、と」

「下にタクシー待たせてたよね?私、もう大丈夫。
 今日は送ってくれて本当にありがとう。今度昼ごはん奢る!三食分くらい奢る!」

「え、ぁあ……はい…もー…一番高い定食頼みますからね」

「ステーキ定食だろうがなんだろうが!」



最初は豆鉄砲を喰らったような顔になっていた後輩も、徐々に事情が呑み込めてきたらしい。
いや、本当に無理に帰すようで申し訳ない…。しかし本当にいいやつだ。かわいい彼女がいるのも以下略。

って、それどころじゃなくて。私の視界の端で、Lがさっさと奥の部屋に引っ込もうとしている。

ぺたり、ぺたりと足音させて。
その背中が何ともいえない拗ねだとか哀愁だとか背負ってるように見えて。

ちょっと待ってよL!絶対誤解してるでしょ!!て私、何か泣き笑いしそうなそんな気分。

そこを、堪えて、



「また、会社でね。気を付けてね」

「先輩こそ」



やたらと愛想の良い営業スマイルを振り撒いて、後輩に手を振る。
呆れたように両肩を少しすくめた後で、後輩はぺこりと頭を下げて帰って行った。




さて、と。





そうしてドアを閉め、戸締りをする。
靴を脱ぐと、足に広がる開放感。
私はそっと廊下を歩いた。



「ただいま〜………」



自分の家の中で、そんな風に言うのはおかしいかな。



「………おかえりなさい」



Lは、立ったままポケットに手を突っ込んで外を見ていた。
私の方を見向きもしない。


「………………L?」

「はい」

「…来て、くれたの?」

「はい。貴女が、無理した声を……出したから」

「………え?」

「…自惚れかもしれませんが、昨日。
 今日が無理になったと伝えた時の貴女の反応が、無理しているように、聞こえました」

「それで、頑張って………?」

「………………遅れを挽回しました」


そこでLは肩越しにこちらに振り向いて。
あの、いつもの無表情のまま、こくりと一度…頷いた。



なんで。


なんでこの人は。


なんでわかるんだろう。



どうにも心の持って行き場がなくて、私は。










「っ………?」



ぎゅぅっと、Lを抱き締めた。
その胸に深く、顔を埋める。
上から聞こえた、少し戸惑うLの声。



「ありがとう………」



もう言葉だけじゃ、伝わらない気がして。

しがみつくよな私の頭を、そっと撫でたその手は。
やがてゆっくりと私の背中に降ろされた。


そうしてしばらく経ってから、Lは一つ溜め息を。



「……あの、ひとつ、とても、気になることが…」

「ぅん?」

「さっきのは、誰ですか?」



…説明するの、忘れてた。



「あのね、後輩………会社の」



信じてくれるかな。
少し不安に悩まされながら、私は後ろめたくてLを見ることができず。
その胸にもう一度、深く頬を摺り寄せた。

もう一度、Lが溜め息をつく。



「………今日は飲み会だったんですか?」

「え?なんでわかったの?」



唐突な言葉に、私は思わず顔を上げた。
Lがうさんくさそうに眉根を寄せ、くんくん、と私の顔の近くに鼻をつける。



「…酒臭い………」

「う…っ、ごめん………」

「酔いつぶれたんですか」

「………ハィ……」



今度は長く長く溜め息をついたL。

まるで子供をあやすみたいに、私の頭を撫でた。
ぅぅん……酔っ払い扱いされているのかしら。



「……………あまり褒められたものではありませんね」

「ふ、普段はこんなんじゃないのよ?ちゃんと節制してるのよ?!」

「へーぇ………?」

「…寂しかったから、ちょと、ヤケ酒しちゃいました………」



その言葉にLは、少しだけ、苦笑して。



「まぁ……浮気とかじゃないならいいんです」

「あ、それ絶対違うから!だいたいヤツにはちょうかわいい彼女が!
 それに本当は下の駐車場で別れるつもりだったんだよ?でも…」

「でも?」

「家に灯りついてたから……二人して空き巣か何かだと思って………」

「…すみません。連絡も入れずに来たら貴女がいなかったので…勝手に上がりこんでました」





Lの存在確かめるみたいに、抱き締めていた私。



触れる肌の温もりが嬉しくて。


この空気を振動させる声が嬉しくて。


その存在全てが私の傍にいる…嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。





「ううん、いいの。
 すごく逢いたかったから、いいの」



Lに会うといつもこう。
どんなに感じていた不安だって、どこかにいってしまう。

その再発を恐れながらも私は、この温もりを手放せないでいる。





「………いつも」


「うん?」


「会えない時間が重なる毎に、貴女を……手放さなければと、思います」


「!」


「でも、会うと…駄目ですね。
 私の我儘と知っていても、貴女に執着する私がいる」





突如Lの口から出てきた思いも寄らなかった言葉に、私は思わず顔を上げた。

私と目があうとLは。
ほんの少し、寂しげに口に弧を描いて。





ねぇ、L、私も。

同じこと感じてるって貴方は。

気付いてないよね、だけど。


Lも同じことを考えていたってわかった瞬間。


大きな迷路に疲弊した私の隣に。

同じように疲弊した貴方がいるんだなってわかった瞬間。



なんだか、答えが見えた気がしたの。






「………私たちはきっと、長い道の上にいるんだね」

?」

「終わりが見えなくて、私もLも、不安になる。
 でもきっと………手を、繋いでいられたらきっと」

「………………」

「同じ処へ、行けると思うの。
 会えないとお互いに不安になるけどきっと、手を…繋いでいるから私たちは。
 その手をお互いに離したくないと思えるからきっと、きっと二人で一緒に迷っていける」





確かな終わりを求める必要はない。

Lと一緒なら私、どこまでも迷っていけるのかもしれない。





「………





急に。

急になんか恥ずかしくなって。



私は慌ててLから離れた。

どうしよう、顔が熱い。
やっぱり酔っていたのかもしれない。

急に離れた私をLが不思議そうに見ている。
あ、あ…どうしよう、どうしよう。





「あ、あのね!スコーン焼いたの。
 美味しくできたんだよ。ちょっと待ってて」





不自然なくらいわたわたしながらその場を離れる。
途中で床に置いてあった雑誌に躓いたりしながら、台所に行って。


ああ急にどうしたんだろう私は。

やっぱり酔っ払っているからかな…。


どうすればいいのかわからなくなって、冷蔵庫にごすん、と額をぶつけてみた。





そこに。





「…………」



後ろから聞こえた声に、私は驚いて振り向く。

Lが台所の入り口に立っていて。
いつものように親指を唇にあてて。



「えっと、今食べる?紅茶がいい?」



さっと目を逸らし、そのまま棚の戸を開けてスコーンを確認したんだけど。
急に後ろから手が伸びて、棚は閉められてしまった。

すぐ後ろ、背中に温もりを感じる。



、スコーンは、明日にして今は………」



耳元で、Lの、声。
頭の芯が…麻痺する、みたい。



「もっと甘いものが、欲しいのですが」



くるりと振り向くと、Lが人の悪い笑みを浮かべていて。
私の顔を見て、さらに笑みを深くして。

顔が、熱い。

私の顔はきっと真っ赤なんだろうな。



「………………」



もっと甘いもの…なんのことを示しているのかわかってる。
尋ねたってきっと無駄。

Lの手が伸びてきた。


………逃げられない、それもわかってる。








ねぇL。



私たちきっと、同じ道の上。


お互いに離したくないと思えるからきっと。


一緒にどこまでも、迷ってゆけるのね。





どこまでも。