孤児院の裏庭。
綺麗に整備されているけれど、普段あまり人は来ない。
孤児院に来た頃………よく、ここに来ていたっけ。
First Star Of Evening
あの頃も。
こんな風に石段に座って膝をぎゅっと抱いていた。
孤児院を隔てた向こう側で皆の楽しそうな騒ぎ声が遠く聞こえて。
でも私の周りには誰もいず、風だけが吹いていた。
閑散とした孤児院の中にも入ることはなく、ただココに座っていた。
どこにも、居場所を見つけることができなくて。
当時の私は人間という生き物をあまり信じていなかった。
母も父も存命だったけれど、私の養育権を押し付け合いながら離婚。
自ら孤児院に入りたいと、私に言わせた原因だ。
まわりの大人達は全て愚鈍であった。
同年代の子供集団なんて論外だ。
彼らと共に生きていきたいなんて感情、さらさらなかった。
死のうかとも思った。
けれど、世を儚むには幼すぎるかもしれない、と感じたのでヤメタ。
生きていればきっと何か見つかる。
そんな安っぽい希望を抱いていた訳でもない。
ただ。
ただ自分の細胞一つ一つが私の意志に関係なく死にたくないと叫んでいる。
心がどんなに苦痛を受けても、身体が死にたくないともがく。
だから、生きるしかないと思った。
………昔の私は、可哀相だったと思う。
それは育ってきた環境、じゃなくて。
そんな風にしか考えられず、生きて来れなかったのが可哀相だと思う。
世界は…こんなにも美しかったのに。
膝につけていた額を、上げる。
オレンジ色の陽の眩しさに、目を細めた。
太陽はその高度を徐々に下げてきている。
それと共に陽光はいよいよ赤みを増していき、それはそれは空も雲も美しく染まる。
沈み行く夕陽の投げかける視線を受けた世界、伸び上がる黒い影。
私の後ろにはすでに暮れなずみ、紫から濃紺へのグラデーションを成している。
そして太陽とは別方向に浮かぶ白銀の欠けた天体は、溶け込みそうな色彩を保ちながらも凛と光を放つ。
優しい風がさわさわと木の葉を揺らしていた。
私の一番好きな時間帯。
私の一番好きな場所。
土を踏みしめる足音が聞こえてきた。
砂利を軋ませるその音に、微かに聴覚が反応する。
それは私のこの景色に、唯一入ることを許された人の足音。
「」
呼びかけられても私は振り向かない。
けれどその姿は見なくても容易く脳裏に描くことができた。
その声は夕闇にしっくりと溶けゆく。
その髪は夕焼に赤々と燃える。
その瞳は何者にも惑わされない。
「なぁに、ニア」
それは私に世界をくれた人。
今この時間、私は彼の声にしか反応しない。
「そろそろ夕飯の準備の時間ですよ」
「うん」
「やっぱりここにいたのですね」
「うん」
あの頃。
誰も人を寄せ付けなかったあの頃。
ニアだけはいつの間にか私の隣にいた。
頻繁に話し掛けることもなく、おおよそ社交と思われるようなツキアイもしなかった。
ただ、ニアだけは何も言わずに傍にいてくれた。
その沈黙はとても心地がよく。
いつしか落ち着いた私から話し掛けるようになっても、ニアはそれを嫌がらなかった。
そうして私はいつの間にか孤児院の皆の輪に溶け込んでいた自分を発見した。
あんなに拒絶していたはずなのに、信頼なんて欠片もなかったはずなのに。
それは誰の影響かと問われれば真っ先にニアと答えるより他になく。
ニアが私の心に世界を少しずつ少しずつ広がらせていった…この、美しい世界を。
向こうがそういう意識を持っていようとなかろうと、私は勝手にもそう思っている。
また砂利の軋む音がしたかと思うと、ニアは私のすぐ隣に立っていた。
夕陽を真正面に受けるその横顔を見て、何故だかとても泣きたくなった。
黄昏は人をメランコリーに誘い込む。
「行かないの?」
「えぇ。夕陽が、綺麗ですから」
並んだ私たちの後ろからは夜が密やかにその覆いを広げ始めていた。
外で遊んでいた皆の声がだんだん疎らになり、その代わりに閑散としていた孤児院に灯りがともる。
ニアはやっぱり私の隣で黙っていた。
もう夕陽は残光を投げかけるだけで、どこか風もうっすら冷気を含み始める。
そっとニアを見上げると、視線に気がついてニアもこちらを見た。
なんだか瞳が逸らせなくなってしまい、そのまましばらくニアの瞳を探る。
ニアは何を考えているのかわからない。
けれどそれは私を決して不安にはさせない。
いつから無条件にニアを受け入れ、信用するようになったのだろう。
そんな疑問はひとりでに、空気中へと放たれた。
「ニアは、どうして一緒にいてくれるの?」
一瞬、ニアの瞳が驚きに見開かれる。
「どうして、いてくれたの?」
まだ薄明るい闇。
その中で。
白く浮き上がるニアは。
「どうしてだと、思いますか?」
とても穏やかに笑んでいた。
「わからないから聞いてるのに」
その表情に少し驚きながら口を尖らせた。
何も答えずにニアが手を差し出すので、その手を取る。
そして手を引かれて立ち上がった。
「夕飯の準備の時間ですよ」
「ねぇ、答えを頂戴よ」
「が答えを当てられたら、それが答えだと言ってあげますよ」
「な、なにそれ………」
ニアが口元に弧を描いたままもう何も言わないので、私は追及するタイミングを逃してしまった。
胸にくすぶる不満を抱えつつも、そのままニアに手を引かれて歩き出す。
しばらく眉根を寄せて考えていたけれどそれらしい答えはまるで浮かばなくて。
だって私、ニアやメロみたいに頭良くないし。
やがて溜め息をついて顔を上げた。
空はもうすっかり暗くなっていて、ぽつりと一つ、瞬く輝き。
「あ、いちばんぼし」
いつの間にか繋いでいる手と反対の手で星を指差した。
そうですね、と隣でニアが相槌を打つ。
一番星って見つけて何かお得なことあったっけ。
願い事が叶うのは流れ星だけだったかな。
何かお願いごと、あったかな。
「これからもニアと一緒にいられますように、ってお願いしていい?」
なんとなく思い浮かんだから尋ねてみた。
「………願わなくても叶いますから、他のことにすればいいと思いますよ」
ニアがさらりとそんなことを言うので思わず立ち止まった。
つられてニアも立ち止まり、先に立ち止まった私の方を不思議そうに見る。
ニアがあまりに不思議そうに見るので、立ち止まった私の方がおかしい気がしてきて。
「そっか………叶う………のか…」
「はい」
独り言のように呟いて二人、再び歩き出す。
あれ?それはどういう意味なの?
あれ?それは特別な意味を含むの?
質問ばかりがぐるぐる私の頭を巡る。
足りない脳味噌フル活用しても答えはでない。
だからやっぱり尋ねるしかなくて、私はそれがちょっぴり悔しかった。
「ニアは私と一緒にいたいって思ってくれているの?」
「はい。それが答えですよ」
「…………答えって、さっきの?」
「はい」
淡々と答えるニアがなんだか恨めしくなってきた。
「私だってニアと一緒にいたいって思ってるんだよ?」
「そうですか。ではやはり一番星には別のことをお願いした方が良さそうですね」
「………………そうだね…」
なんだか上手く丸め込まれてるような気さえする。
ニアの手のひらの上でコロコロ転がされているような感じだ。
さっきから謎だらけで、この上手く働かない凡庸な頭を叱咤激励。
そうやってうんうん悩む私をちらりと横目で見て、ニアは可笑しそうに苦笑い。
そんなニアに、私はむぅっと膨れて見せて………それから長く長く嘆息。
「明日になればニアの言った事わかるかな」
「明日にならなくてもわかって欲しいのですがね」
「それならもう少し簡単に言って欲しいのだけど」
孤児院に入ろうとする二つの影。
空にはすでに幾つもの星が瞬こうとしていた。