「よく寝ていますね………」
「あぁ」
夜空の濃淡に変化の出始める頃、準備は全て整った。
Lとワタリは、ぐっすり眠るを見下ろしている。
キャラメル 9
「………そろそろ、行きましょうか」
「…そうだな」
を起こさないように二人はそっと部屋を出て玄関へと向かう。
Lは拳を強く握り締めた。
下らない感情は、いらない。
馬鹿げた自分も、いらない。
けれど。
かすかにひっかかる痛み。
「ワタリ………」
「はい」
「すま、ない………」
苦しそうなLの声に少し驚いて、ワタリはLを見た。
Lは俯きながら靴を履いている。
その表情は、見えない。
―――ワタリは、気が付いていた。
の出現と共にLの心にも出現した、ワタリへの罪悪感に。
そんなもの、彼が背負う必要は、ないのに。
ワタリは髭の下で優しく微笑むと、弱々しく顔を上げたLと、目を合わせた。
「L、私は、自ら選んでこの場にいるのですよ?」
「!」
「私自身が、決意して、望んでいるのです。
生半可な気持ちで今日までいたのではありませんよ」
「………」
「そしてそれはこれからもです。さぁ、行きましょう」
ワタリがにこりと笑って、扉をそぅっと開けた。
「………ありがとう」
頭をぺこりと下げて出る。
今、この胸に溢れる感謝の念がワタリに届けばいい、とLは思った。
そしてこの謝罪の気持ちも…に、伝われば。
虫のいい話だとは、わかっているけれど。
「…すみません……」
閉まる扉に向かって、Lはぽつりと呟いた。
(これで、貴女には、もう―――…二度と……、)
パタン………
扉が閉まる音と共に、の意識はふっと浮かび上がった。
「ん………りゅうざ、き?おじいちゃん………?」
夜はまだ明けていないのか、部屋は薄暗い。
欠伸しながら時計を眺める。変な時間に目が覚めたものだ。
ぼんやりとした頭で起き上がってみる…と…人の気配が、しない。
「……………?!」
布団を跳ね除けるようにベッドから飛び出すと、は部屋という部屋を見てまわった。
心臓がばくばくと凄い音を立てている。
嫌な予感で胸がむかむかした。
朝一番の紅茶を淹れているワタリもいない。
ぼーっとした顔で歯を磨いているLもいない。
ベッドで寝ているわけでもない。
椅子の上で寝ているわけでもない。
パソコンがない。
荷物がない。
靴がない。
二人の…匂いすら、しない。
「ぃ、や…ゃだ………やだぁあっっ!!」
あるのはさよならの書き置きと。
そして暮らしていくには十分なほどのお金が入っている、通帳。
けれど。
けれど欲しいものは、そんなものではなくて。
はその場に立ち尽くした。
置いていかれた、私だけ。
こんな日が来ることはわかっていたはず。
上手にお別れしよう、って決めていたはず。
なのに。
なのに………
「――――――さようならも、言えないの?」
Lがよく座っていた椅子。
そっと触ると、まだ温かい?
まだ遠くへは、行ってない?
訳もわからず服を着替える。
頭の中は真っ白で、部屋を転がり出た。
エレベーターの前まで来ると、一つだけ、下へ向かっているエレベーターが。
きっと彼らが乗っているに違いない。
早く。
早く来て。
がボタンを押すと待っていたかのように後ろのエレベーターの扉が開いた。
置いていかないで。
置いていかないで。
置いていかないで。
エレベーターから転がり出ると、駐車場へ向かって一目散。
夜明け前のつめたい空気が、の白い膚につきささる。
見渡せば、今しがた走り出したばかりの黒いリムジン。
どこに行くの。
どこに行くの。
お願い待って。
足は自然に走り出す。
夜明け前の薄明かりの中、走るリムジンを追いかける。
考えれば当然だけれど、追いつけるはずもない。
でもその時はそんなこと、全く考えられなくて。
ただ黒いリムジンめがけて全力で走った。
ひらく距離。
もう駄目かと思った時、リムジンは赤信号で止まった。
まだ、行ける。
「おじい、ちゃ………っ、りゅうざきぃ───っっ!!」
目から涙が溢れてきた。
視界がぼやける。
けれど全身全霊で、目一杯、走って、呼んで。
「おじいちゃんっ、りゅうざきぃっっ!!」
無情にも青に変わる信号。
走り出す、リムジン。
「………っ、ぇ、るぅ───っっ!!!」
お願い。
待って、置いていかないで。
一人にしないで。
お願い。
そばに……そばにいさせて………。
その、少し前。
これでよかったのだ……。
そう思おうとしていた。
ワタリの運転する車の中で、じっと双眸を鎖していたL。
いつもよりも膝を抱え、小さくなって。
…これで、よかったのだ。
もう一度、心の中で繰り返す。
は、まだ眠っているだろうか。
目を覚ましたら、どんな顔をするだろう。
何も言わなかった私たちを怒るだろうか、けなすだろうか、恨むだろうか。
それとも、ただ悲しむのだろうか。
………………………。
私はもう、気付いている。
本当はを置いていきたくない気持ちが、自分自身の中にあることを。
それがどうしてなのか、かろうじて未だ分からない。
―――いや、本当は、私はわかっているんだ。
わかっていないふりをしているんだ。
「わかっている」と認めてしまえば、「わからなかった頃」に戻れない気がする。
今なら、戻れる。
だからこんな感情は鍵をかけて、重りをつけて、意識の底に沈めてしまえばいい。
これで、よかったのだ。
強く…強く思う。
夢にも、思わない。
今、そのが彼らの乗っている車を追いかけているだなんて。
最初に気がついたのは、ワタリだった。
信号で止まるまで気がつかなかったのは、彼もやはり想っていたのかもしれない。
ホテルに残してきた、忘れ形見である孫娘の、ことを。
「L………っ、落ち着いて、ミラーを使って、後方を確認してください」
焦ったワタリの声に、Lはそっと目を開け、ミラーを覗く。
走る、女性。
髪を風になびかせ、振り乱して。
苦しそうに、走る。
「……っ?!」
Lは驚きに目を丸くした。
何故ここにが?
追いかけてきたのか?
こみ上げてきた感情を、Lは押さえ込む。
こんな感情は知らない。
―――知りたくも、ないんだ。
「ワタリ…振り切って、下さい」
「……はい」
静かだけれど微かに、震えていた声。
そのことを知っているのはワタリだけだ。
信号が、青になる。
リムジンは、走り出した。
ミラーの中でがはっと顔を上げる。
何か叫んだようだが、よく聞こえない。
泣きそうな顔。
どんどん開く距離。
ミラーの中で、が小さくなっていく。
焼きつくように、心臓が、痛い。
唇を引き結んで、Lは瞳を伏せた ――― その、瞬間。
キキキキキキィィ………ッ ドンッッッ
嫌な音に、はっと目を開ける。
ミラーの、中で。
の身体が、宙に浮いて、いた。
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